真理瞑想行は、お互いの人生に対する自覚と反省とを現実に促し、現在生きている命をよりよく有意義に活かすのに必要な基礎的観念を、正確につくり上げることを目的としている。
心身統一法の根本原則の中で、最も重要なことは、心を絶対に積極的にし、精神態度を本然(本来あるべき姿)に即応させることである。心を絶対に積極的にするには、その基礎的観念を正しくつくり上げることが必要である。そのために、人間の持っている暗示感受習性を応用し、独特の教え方で正しい悟りを開かせようとするのである。すなわち、万物の霊長たる人間の真本領を発揮し、本当に生き甲斐のある人生を活きるのに必要な悟りを開かせるのが、この真理瞑想行の目的である。
従って、真理瞑想行では、人間の生命に与えられている法則という、普通の人の知らない貴重な人生消息が主眼とされている。厳格にいうと本来の真理瞑想は、考える問題を与え、誰にも教えられず、その問題を自分なりに考えて、それが正しい真理に合致するまで何年でも考えさせる、というのが本当の方法である。
私は、インドの山の中で三年近くその修行をしてきたが、その間に与えられた問題は、例えば「心とは何だ。お前の現在の心はお前の本当の心か」あるいは「人間とは何だ」ということを考えていくのである。日頃そのような研究をしている人でも、一つの問題に三月や半年はかかるものである。しかしここでそうしていたのでは、一つの問題を解くどころか半分も解決することができないであろう。そこでこのように変則的な方法、すなわちあなた方が悟る代わりに私からお伝えするのである。
ただこの方法は、苦心して自ら悟るものでないために、いいなあと思いながらも、時にせっかく得たものを無にする恐れがある。であるから、あなたがたも私同様に、自分の肉体に重い病を持ち、その病と闘いながら、親から離れ国から離れてただ一人、ヒマラヤの山奥で端坐瞑目して真理と取り組んでいるのだという厳かな気持ちで聞くなら、その聞いていることは、天風から自分に告げ知らされるのでなく、あなた方の魂が、あなた方の心にそれを悟らせているのだと考えてよろしい。そうすれば、本当に自分が苦心して悟りを開いたのと、その結果は五十歩百歩、大して違わないことになる。
悟りというものは、自分の心が真理を感じたときの心の状態をいうのである。従って、真理を自分の努力で自分の心が感じたのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れたのも、ただ受け入れ方に相違があるだけで、受け取ってしまえばその結果は同じである。真理を受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係があるから安定打坐で心を綺麗にして行わせているのである。
本来人間は、改めて真理をいろいろ説き聞かされるまでもなく、この世に生まれ出た時から、絶えず真理に接し、真理の中で生きているのである。しかし、ちょうど魚が水の中で生きていながらそれを知らないのと同様に、真理の中にいながら なかなか真理を自覚することができないのは、要するに心の中に雑念妄念があるためであり、本当に心が清い状態であれば、真理はすぐに発見できる。ちょうど頭の上から帽子をかぶせられているように、綺麗な心の上に雑念妄念が覆いかぶさっているために、真理の中に生きていながらその真理を悟れない。
ところが、安定打坐という特殊な方法を行うと、雑念妄念がたちどころに消え去っていく。たちどころに、とまでいかなくとも次第に心の中からなくなっていく。そうすれば、しいて大した努力や、いわゆる難行苦行などをしなくても、心が真理と取り組んでいこうとする自然傾向になるので、真理瞑想の内容が、心の中に正しい悟りとなって現れてくる。悟りが開けてくればその結果、心が本然に即応して、疑いも迷いもなくなり、磨き立ての鏡のように綺麗なものになる。
同じように修行しても悟りの非常に早い人と時間のかかる人があるのは、この安定打坐を真剣にやるか否かによって区別されるのであるから、真剣な安定打坐で行うことが大切である。
私の体験によれば、小・中学生の方が素直にそれを自分のものにして、人生苦楽の歴史を繰り返している、いわば酸いも甘いも噛みわけているはずの年配者の方が悟りが遅いという傾向がある。というのも結局、子供は批判するにしても、その範囲が狭く内容にも複雑さがないが、中年以上の人たちは余計なこだわりが多くあるため、無邪気に純真に受け取ろうとする気持ちが疎かになってくるからである。
もっとはっきりいうなら、形だけは安定打坐で、心が安定打坐になっていないとせっかく、真理瞑想を諄々と自分の魂の中に注ぎ込まれても、涙の出るような感激を感じることが少ないかもしれない。であるから、何はさておき、疑う気持ちや批判を乗り越え、ただ無念無想の状態で、内容をわかろうとするのでなく、ただ受け入れていくという気持ちで行うことが何よりも大切である。そうすれば、それが無条件で悟りの花を開かせてくれることになるのである。

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