およそ人としてこの世に生まれ、万物の霊長たる人間として人生に活きるために、第一に知らねばならぬことは、人間の〝いのち〟に、生れ乍らに与えられた、活きる力に対する法則である。
まこと、自分の命の中に与えられた力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、真に、限り無き強さと、歓喜と、沈着と、平和とを、作ろうと思わなくても出来上がってくるように出来ているのである。
それを一番先に我々は知らねばならない。
ただ、我々の多くは、今までハッキリそうと気が付かなくても、こうしたことを求めていたには違いないのである。求めてもどうしても自分の心に正しくキャッチせしむることのできなかったのは、我々の今まで受けた教育教養が、科学的の方面にのみ偏ったものであったがためなのである。一プラス一は二という、この算数的のやり方で教育されていた結果として、論理思索を進めていこうとする計画に、いつも失敗しているのである。―と言われて、我々の心が、あることを考え始めたときに、何処までが考えている心で、何処までが考えられている心だという区別がつかない。
一言にしていえば、哲学的思索に馴れていない。それが為に、自分の生まれ乍らに与えられた、命の力に対する法則の如きは、本能的に知っているべき筈の事柄であるにもかかわらず、それを、わからずに居るのである。
由来、哲学という言葉の意味は、大抵の人が本当に理解していないようであるが、一番其の意味を明瞭に言い表しているのは英語である。英語では、哲学のことを、メタフィジックス(metaphysics)と謂っている。この言葉は、その組み立て通りの意味を有している。則ちメタ(meta)とは、超越するという言葉、フィジックス(physics)とは、物理学という言葉であるから、メタフィジックスとは、物理的なもの以上のものを意味して居ると謂ってよい。
だから、哲学の主張を、我々の人生の言行に移すという事は、言い換えると、「物質的の方法を超越せる法則を行使する」ということになる。
多く言うまでもなく、哲学は、我々が今見る処のもの―現象を遡って、その原因を探求する学問で、則ち、詳しく言えば、哲学とは、自然界に存在する、現在、今、在るが如き物質的な形に、その現象を表した力の法則と、その究極的原因とを探らんとするものである。
そこで、順序から行けば、第一に、こういう事を、あなた方は、知っていなければならない。
それは、この宇宙というものは、人間が創ったものではないという事であり、同時に、我々人間並びにあらゆる総ての生物は、宇宙が出来てから宇宙が創ったんではない。―ということである。これが、はっきりと、わからねばいけない。
宗教の方には、唯心論と汎神論というのがある。
唯心論というのは、初めに神がいて、その神というものが、この宇宙を創ったんだと…。それから、汎神論の方は、宇宙が出来てから、その中に、神が現れたのだと…。
何れも、神を相手に考えようとする考え方であるが、これは、今のように、まだ科学が発達していなかったときの人間としては、無理からぬ考え方で…、私がいつも言っている通り、今から千年二千年経つと、今あるような宗教という宗教は、皆、地上からその姿を消してしまうであろう…。
それは、人間の理知が、既成宗教の如きに、頼って活きなければ活きられないような、憐れな、無自覚なものでなくなるからである。
純粋哲学の立場から厳かに観察すると、この宇宙というものは、形ある宇宙以前に、もう既に、形の無い宇宙が在ったんだという事から、真理の探究というものが、行われなければならないのだ。
神とか仏とか言うのは、人間が、便宜上、付けた名前だから、このようなものに捉われてはいけない。
それを、抽象的であり、あまりにも漠然たるものを相手に、やれ、神だ、仏だ、と、あなた方は思っているが…。では「神とはどんなものか」と聞かれたら何と説明するか。「仏とは如何なるものか」…と聞かれたらどう説明するか。見たことも聞いたこともないものに、説明の与えられるはずはない。
ただ、そう思うと、なんとなく、思った方が安心のできるような、同時に、なんとなく、自分が一種の信仰というような気持ちを、気高いと感じるという感じでもって、考えられるだけではないか。
だから、ズバリ、私から言わせれば、やれ、神だ、仏だ、と言っている者は、安直な気休めを人生に求めている、憐れな人としかいわざるを得ないのだ。
もし、あなたがたが考えているような神や仏が、この世の中にあったら、第一、この世界に、戦争などあろうはずがないではないか。キリスト教の人間たちが、地球をも破壊するかもしれないような原爆や水爆を、考え出す必要もないじゃないか。
本当に、あなた方が思うような神や仏があったら、それに、もしも、信仰を捧げたら、即座に、神や仏のような綺麗な気持ちになれそうなものではないか。
この中には、クリスチャンもいるだろう。また仏教信者もいるだろう。信者という名前だけで、その人たちは、相変わらず、怒ったり、悲しんだり、恐れたりという、繰り返しの日々を送っていはしないか。
こゝに集まっている多数の会員の諸君を目の前にして、じっと見つめているときに、後光のさすような尊い人の、一人もいないことを遺憾とする。それは、あなた方の体から出る、オーラの一切が証明している。
まあ、兎も角、安定打坐が、刹那、できた時だけは、綺麗なオーラが見えるけれども、そうでない時には、もう、濛々たる、見えない毒ガスが、あなた方の体から出ている。―と言っても言い過ぎではないほどで、あなた方の心は、穢れている。汚れている。そして、醜い、弱々しさを持っている。
それというのも、当てにならないものを当てにして、救われようとか、助かろうとかする、極めて、さもしい、気の弱い、憐れな依頼心の強い気持ちで、それを信仰と名付けているからである。
本当の真理から論壇すれば、何も、神だの仏だのと頼らなくてもよろしい。昔からの歌にもある。
心だに 誠の道に かないなば
祈らずとても 神や守らん
先祖を敬い、先祖を忘れないための、追善供養は必要である。だが、あなた方の神仏に対する信仰は、そうではなく、いつも、自我本位な、自分の生命や、自分の運命の安全ばかりを冀(こいねが)う念願だけが、諸君の信仰のエイム(目的)になっていはしないか。
これを、第二義的信仰というのであるが、そのような信仰を持っている人間は、何となく神があり、仏があるように思って、その神や仏が、この宇宙を創っているように思っているが、違う、違う…。
先ほど、形のある宇宙ができる前に、すでに、形のない宇宙があったんだ。…と言った。形のない宇宙とは何か…。
まず、科学的に考えてみよう。この宇宙の中に、我々が感覚するような、色々な森羅万象があるが、この森羅万象も、突き詰めていくと一体、一番初めは、何からできたんだろうということを、突き詰めて考えるという、考え方で、考えてみよう。
鶏は卵から出来、卵は鶏が産む。突き詰めて行かない限りは、いつまでたっても堂々巡りである。
哲学的思索で、これを、突き詰めていくと、卵でもないし、鶏でもない。と、いうことがわかる、一番初めは。
一番根本は何か。―と言うと、ただ一つの実在から生み出されたものである。その、実在とは何であろうか。
哲学では〝根本的本源実在〟―と呼んでいる。
科学では、これを、極微粒子的なものとして、名付けて〝エーテル〟という名前をつけている。
哲学の方では、人間の感覚では、捉えることのできない、茫漠たる、見えざる、一つの〝気〟であるといっている。
これを支那では〝霊気〟と呼び、日本の儒学者は〝正気〟といっている。インドのヨーガ哲学では、これを〝先天の一気〟といっている。そして電気や、磁気や、その他の火気とか、水蒸気とか、いうものは、それを〝後天の気〟といっている。
が、いずれにしても、このただ一つのエネルギーを生み出す元が、宇宙を創り出したのである。
だから、哲学的な論定から行くと、その、エネルギーを産み出す元が、やっぱり、今あるがごとき、宇宙の鋳型を成していたのだ。―ということが考えられるのである。
とかく、一番いけないことは、我々の五感が感覚しないことは、あっても、無いーと思うことである。
空気は、電波は、誰も感覚しないけれども、無いか…。無いと否定するか…。もちろん、否定しないだろう。否定しない理由は何か。―と問われたら、あなた方は、何と答えるか…。
必ず、第二義的な言葉を用いるであろう。すなわち「在るから人間が生きていられるじゃないか。あらゆる生物が生きていられるじゃないか」…と、「電気があるから、ラジオが聞かれ、電球が光るんじゃないか」…というように、第二義的な結果現象をもとにして、これを証明しようとするデータにしているが、それは、あくまで、第二義的な証明じゃないか。
昔は、地球が、まさか、太陽を中心として、自ら回転しているとは思わなかった。地球は、一つ所に止まっていて、その周りを、太陽や、月が、回っていると思った。
それを、我々は、子供の時から、そうではなく、「地球は、太陽系統の中に、太陽を中心として廻っているのだよ」と、学校の先生に教わっただけで、証拠を見たわけではないが、無条件で「そうだ」と思っている。
その「そうだ」と思う気持ちで、これを考えねばいけないのだ。
それが、哲学的考え方を決定する基盤の要素なのである。
これを、天風哲学は、〝宇宙本体〟あるいは〝宇宙霊〟という。もっとも、名の付け方はどうでも良い。
宇宙大霊でも良いし、宇宙本元でもよろしい。それを目指しているのなら、神でも仏でもいい。が、しかし、あなた方が、在来、考えていたような神や仏といっていた、その気分で、この宇宙本元を、同じように考えちゃだめだよ。宇宙本元が本当なんだから…。
とにかく、たったひとつの、宇宙の本体の産み出したものが、森羅万象だ。だから、従って、森羅万象を包含している宇宙もまた然り。だから、哲学的に究極していくと、現象界に存在する一切の物質ことごとく、この宇宙本体から産み出されたものである。
と同時に、科学的に考えてみると、かるがゆゑに、一切の森羅万象と称するものは、宇宙本体のエネルギーの分派によって創られている。形が、目の前にあるというのは、宇宙本体の力が、まだ籠っているからである。
その力が抜けてしまえば、そのものは、その形を現象界から消して、根本要素に還元しなければならない。
人間が死ぬというのも、そうなんだ。
そして、特に忘れてはならないことは、―ここが一番大事なんだ。人間は、あらゆる万物の中で、この宇宙本体の分派分量を最も多く頂戴している。まことに、人間以外の生物が真似することのできないほど、分量多くいただいている。これが、人間、霊長と言われる所以のものである。
もう一つ重大なことがある。それは、普通の人には、なかなか考えられないことであるが、すべて、気というものは動かなければならない。―ということである。
気というものは、一定一ヵ所に静かにしている気遣いはない。
気が動くと、動いた気によって、物が創られるようになっている。
エレクトロンだって、プロトンだって、そのままいたんじゃ何の役にも立たないが、この エレクトロン、プロトンを、ダイナモに集約して、ワイヤーに伝え、あるいは、線がなくても空気を伝わって、これを受け入れる受信装置のある所へ移してやりさえすれば、そこに、恐るべき力、熱、光が出てくる。―あの電気というものである。
これも、気が動いたからの結果である。
気が動いた時の、気の元を、哲学では〝霊〟と言っている。
霊と言うと、すぐ、魂と思うからいけないのだ。
霊というのは、極めてスーパーな、見えない気に対する名称なんだから…。
この〝気〟が動こうとするときに、現れる現象を「アイデア」と言う。
人間で言うと〝心〟と言う。
英語で、アイデアと言うと、すぐ、人間の動かす心―と思っていると大違いだ。
アイデアというのは、気の動く場合における、現象事実に対する形容詞である。
元の発音は、ギリシャ語で〝イデア〟と言ったのだ。
だから〝心〟というものは、気の能動を指して名付けた名称である。
あなたがたは、心、心と言っても、今までは、心とは、何だか、ちっとも解らずにいたかもしれないが…。
だから、この峻厳なる事実を厳かに断定すると、心というものは、一切の生命の中核を為している、霊という気の働きを行うために、与えられているということが、すぐ断定できるであろう。
そして、心というものが、霊というひとつの気の働きを行うとき、どんな現象事実を行うかというと、心の活動は、思うこと、考えること以外にはないのである。
つまり、いい換えれば、思考によってのみ、心の活動は行われる。
それから、あなた方が、もう一つ覚えておかなければならないことは、この思ったり考えたりすることは、意識的に思ったり考えたりする時と、無意識的に思ったり考えたりする時と、二種類あるということである。
まあ、おいおい説明するが…。
そこで、私は、長い間この偉大なる心理に立脚して、考えて、考えて、考え抜いた結果、こういうヒントを得たのである。
いってしまえば、極めて簡単なことであるが、何十年かかったことか…。
一番最初に考えたことは、今いった原理を考えてみると、人間は、日ごろ、人生に活きる刹那刹那、いかに心を運用することが適当なのか―ということである。
言い換えるならば、心の運用を、良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生も、良くもなり、悪くもなるんだなあ―ということだ。
長い間、病に苦しめられて、どんなことをしても、助かり得なかった私は、結局、最後に、苦しんだ挙句、悩んだ挙句、悶えた挙句、本当に、命がけで、取っ組んでいて、ようやく考えついた。
こうして考え付いたのが、やがて、あなた方の幸せにもなろう―ということであるが…。
つまり、人間の日々の人生に生きる刹那刹那、ちょいと笑うこと、冗談言うこと、その刹那にも、その心の思い方、考え方が、やがて、我々の生命を、完全に為し能うか、為し能わざるかという事実が、産み出されるのである。
もっと解かりやすくいえば、我々の生命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い意味における人生の事柄を、心の運用いかんによって、決定することができるんだ―という真理を、私は悟り得たのである。
それを悟り得たばっかりに、もう、医者という医者が、片っ端から匙を投げた私の病が、本当に驚くような経過で治った上に、今あるがごとき長い寿命を、堅固に活きているという幸せを味わっているわけである。もしも、私が、あなた方のように、もう、ちょいとしたことにも気にかけて、心の運用を誤っていたら、六十まで生きられなかったことは当然である…。といったような悟りは、こういうことから開けたのである。
『人間の心で行う思考は、人生の一切を創る』
これが数十年来かかって考えて、苦心の末、ようやく悟りだした、人間の生命に絡まる宇宙真理であった。
これは簡単なことで、さっき言った真理を、逆に考えればすぐわかることである。
人間の、思ったり考えたりする心の作用というものは、霊の働きで動いているとすると、その霊という気は、宇宙を創っている造り主である宇宙本体が霊なんだから、やっぱりそれに通じているのである。―ということである。
電灯に抵抗の強いものを当てると、ショックはたちまち変圧器に来て、すぐヒューズが飛ぶ。あれが、結局、通じている、繋がっているからである。
そうすると、この宇宙霊という、気の元が、一切の万物を創る力がある。―ということである。
だから、この当然である連結関係を繰(たぐ)っていくと、なるほど、人間の心で思ったり考えたりするということが、あだやおろそかにできないんだということが、すぐに気がつくはずである。
誠に、峻厳侵すべからざる宇宙真理である。
だから、どんな場合があっても、消極的な方面から、ものを思ったり考えたりしてはいけないのである。
だから、この法則を厳として自覚して、常にこの法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というものは、自然的に出てくる。
これをしも、仏教でいう〝無碍自在〟というのである。
だから、どんな場合にも、心の思考作用と宇宙を司る宇宙本体の創造作用―物を産み出す力―とは、別々に分かれているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れてはならない。
だんだんと講演が進むに従って、どんなに、心の思い方、考え方が重大であるかということが、自然に解かってくる。…が、今日は、ただ、人間というものは、人間自身の心の中の思わせ方、考えさせ方が、自分の生命の全体を、強くもし、弱くもするんだということを、もう、厳格に悟ろう。また悟らなければならない。
人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型の通りに宇宙本体から微妙な力が働き出して、その観念の型が、良ければ良いように、悪ければ悪いように…わかりやすく言えば、思い方や考え方が、積極的であれば積極的のようなものができ、消極的なら消極的のようなものができる。そういうように真理ができているのである。人間の境遇だとか、その人の現在に同情するということはないのである。
真理というものには同情はない。峻厳犯すべからずである。
どんなことがあっても、忘れてならないのは、心というものは、万物の総てを産み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中に受け入れるパイプと同様であるということである。
パイプに穴が開いていたら、漏ってしまう。そっぽを向いていたら、何もならない。
パイプでわからない人は、光を通す窓だと思いなさい。
電流を通ずるワイヤーだと思えば良い。
今までは気が付かずにいたかもしれないけれども、人生の一切は、健康であろうと運命であろうと、肉体も、心も、また環境も、一切合切、人の心に因って創られているものである。これが、科学研究の人間には、わからなかったのである。また、現在でも、わかってはいない。ようやくわかりかけてはいるが、どうすれば、一体全体その心を処置することができるかということが、わからずにいる。
とにかく、人間として生まれた以上、健康的にも運命的にも、理想通りの正しい人生を建設しなけりゃ嘘だ。だから、怠らず注意深く、自分の心の中の思い方や考え方を積極的にすることに努力しよう。
そのために、観念要素の更改だとか、神経反射の調節だとか、積極観念の養成だとか、さなきだに、修練会に来て、安定打坐で、雑念妄念をきれいに洗い浄める方法を教わったんだもの…。
これで、尚且つ、心の中に、消極的なことを、思ったり考えたり、神経を過敏にしたりする人間がいたら、凡そ、その人間は、真理を冒涜する〝バチ当たり〟だと遠慮なくいおう。
自ら、尊い宇宙本体の力を拒否している人だ。否定している人だ。尊い慈悲の力を、自分で踏みにじっている人だ―といおう。
神経過敏な人間は、現在の苦しさから逃れたい、死ぬのが恐ろしい―という。それじゃ、生まれる前が恐ろしかったか…。
死ぬことは、生まれる前と同じ境界に入るだけのことじゃないか…。
いわゆる、安定打坐の無念無想の状態は、死と一歩の境じゃないか。大死一番の境涯だ。もっと、人生を、余裕のある心の状態で活かしなさい。
そこで、特に、毎朝目が覚めたら、甦りの誦句というのを、厳かに、自分の心に、自分自身で、口誦さんで植えつけていく。
〝甦りの誦句〟――これは、修練会で、毎朝、私が、朝のご挨拶のときに、あなた方の耳に入れるけれども、これは極めて大事な誦句である。
これを、本当に、自分の心のものにしなければいけない。
もっと理想からいえば、この誦句の通りの心であらねばならないように成ならなければならない。心は…。
そうすれば、いま〝いのち〟がなくなるような、健康上の危急に直面しようと、運命がどうなろうと、即座に、その運命が開かれ、その健康が回復される。
解かったね!
さあ!誦句を唱えよう!
?
朝旦偈辞(甦えりの誦句)
吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向かわんとするのである。
吾はまた 我が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。
吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。
一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。
そして 恒に明るく朗らかに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。